歴史の事実を知り、交流をつなぐことの大切さ。

20130813_001

Interview - ポール 邦昭 マルヤマさん
南コロラド日米協会会長、コロラド・カレッジ アジア諸国語学部日本語教師

ポール 邦昭 マルヤマさんは1941年、日本人の父とアメリカ日系2世の母の三男として東京で生まれ、4歳のとき満州の鞍山で終戦を迎えた。終戦間際のソ連軍侵攻で隔絶状態となった満州*1。父の丸山邦雄さんは当地に取り残された約170万の日本人の引き揚げを可能にするため、2人の同志*2とともに全くの私人の立場で満州から決死の脱出をはかり、大連カトリック教会や中国国民党軍の協力も得て中国の天津に脱出して、米海軍船で帰国。満州の悲劇を広く訴えGHQ(連合軍総司令部)に陳情し、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとも面会して130万人の引き揚げを実現させた。

この3人の偉業をできるだけ多くの人に伝えたい。その思いからポールさんが選択したのは英語で出版することだった。2010年に“Escape from Manchuria”を自費で出版。翌年『満州 奇跡の脱出』として翻訳、出版されている。

*1 1945年8月9日、突如侵攻が始まり、やがてソ連が満州全土を占領。
   外部との通信も完全に途絶え、職も奪われ、銀行口座も凍結され、他の地域へ行くことも許されない状況に陥った。

*2 鞍山で建築事務所を経営していた新甫八朗さんと、その部下で中国語が堪能な武蔵正道さんの2人。
   当時、丸山さんの父42歳、新甫さん32歳、武蔵さん24歳。

知られざる3人の偉業を
世界の人たちに伝えたい

約170万同胞を救うため、2人の同志とともに満州からの脱出行をはかった父。ポールさんたち4人の兄弟と母、手伝いに来ていた縁戚の女性は、万一の際に大連カトリック教会に助けを求められるよう、司教とも話をして教会近くに留守宅を構えた。父と別れてから11ヵ月、丸山家の人々を乗せた引揚船が佐世保に入ったのは1947年1月10日。第1回目の引揚船が入船してから8ヵ月、引き揚げも終盤に差しかかっていた。このとき、ポールさん5歳。

「満州の記憶はあまりありません。一番覚えているのは、お腹がいつもすいていたことですね。佐世保に降り立った私たちを見て父が言った言葉も『かわいそうに、棒のように細くなって…』というものでした」

「満州のことは母からときどき聞いたくらい。父は脱出のことも全くといえるほど話してくれなかった」という。「必要なことと考えたから実行したまでで、特別なことではない、と父は考えていたようだ」とも話す。米国籍で空軍将校でもあったポールさんにとって、ダグラス・マッカーサーは憧れの軍人。子どものころから伝記などを読んでいたが、まさか父がマッカーサーと直接話をして満州に引揚船を送る交渉をしていたとは…。当時は知るよしもなかった。

年齢を経て時間に余裕ができたころ、ポールさんは今回の著作のベースになった父の本『ユートピアを目指して:アジアの曙——死線を越えて』と『なぜコロ島を開いたか——在満邦人の引揚げ秘録』を読んだ。そこにあったのは、自分の知らない“父たちの満州脱出劇”。そんなある日、日本のシンドラーと呼ばれた杉原千畝氏*3について氏の長男が語る講演を聞き「素晴らしい話だ」と思うのと同時に、「どうして、自分の父たち3人の話は誰にも知られていないんだろう」と不思議に思った。

「日本人だけでもアメリカ人だけでもなく、もっと広く世界の人にこの事実を知ってもらいたい。だから、英語で出版することは決めていました。ただ、自分が書くとは思っていなかった。でも考えてみれば、父も母ももう亡くなっているので一番この話を知っているのは僕ら兄弟。その中で、日本語が読めて時間に余裕ができたのは私しかいない。しょうがないな、じゃ書くぞ!と覚悟を決めてスタートしたんです」

*3 第2時世界大戦中、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理を務める。
   外務省からの訓令に反して、ユダヤ難民に「命のビザ」を大量に発給し、約6,000人の避難民を救ったことで知られる。

20130813_002

言葉、人のつながり、
ラッキーな出会い

書き上げるまでにかかった期間は約6年。「父が書いた本以外にも、いろんな資料を翻訳しなければいけない。いろいろな事実に基づかなきゃいけないですからね。ヴァージニア州にあるマッカーサー資料館やメリーランド州にある国立公文書館、ニューヨークにあるメリノール宣教会に出かけ、いろんなことを調べました」

日本に来る機会があったときには古本屋ものぞいた。そこで運よく見つけたのが、父と一緒に脱出を決行した武蔵正道さんの著書『アジアの曙——死線を越えて』だった。そこには自分の知らない父の姿が描かれていた。さらに幸いなことに日本から、満州引き揚げに関する資料を送ってくれる人たちも現れた。「そうしてだんだん情報をまとめて、最後にやっと書いたんです」

父は1930年にアメリカに留学し、日系2世のメアリーと出会い、結婚。英語が堪能で、アメリカ人の思考にも理解があったことが、GHQとの交渉に大いに役立ったことは間違いない。「マッカーサーとも完全に英語で話せたことは、大きかったでしょうね」。一方で同志のひとり、新甫八朗さんは経営していた会社の中国人従業員の信望も厚く、中国国民党の地下司令部と接触できたのも、そうした人のつながりからだった。武蔵さんも中国語に通じ、やはりその人柄から中国の人たちの強い信頼を得ていた。

当時の情報を集め詳細がわかるにつれ、ポールさんは父たちの行動の大きさを認識する。同時に、幼い息子たちを守りぬいた母の強さと勇気も。そして、国籍や立場を超えて助けてくれたさまざまな人たちのこと、大連カトリック教会の司教に始まる手紙がなければマッカーサー元帥に会うことはかなわなかっただろうことも。

「日本人にも読んでもらわなければいけない、でも、私の翻訳じゃ下手すぎてダメだろうと思っていたところに、偶然、高作自子さんが私の住むコロラドスプリングスに来られて。お会いして話をしたら『私にこの本を訳させてください』という。これほどラッキーなことはなかったですね」

出版後、日本からもメールが来るようになった。多くは「私は引揚者だけれど、この話は全然知りませんでした」というもの。「その点でも、本を書いた甲斐があったと私も喜んでいるんです」とポールさんは笑う。

20130813_003

再び過ちを冒さないためにも
事実を知る必要がある

20130813_0041964年、アメリカ代表の柔道選手として東京オリンピックに出場。5度の世界選手権にアメリカ代表選手として参加し、1980年と1984年にはオリンピック・アメリカ柔道代表団の主任コーチを務めた。そんな横顔をもつポールさんは、ここ20年にわたって、日米の草の根交流にボランティアとして力をそそいできた。別名「万次郎サミット」と呼ばれるその交流の、アメリカ側の理事のひとりでもある。このサミットは毎年アメリカと日本で交互に行われ、2013年の開催地は島根県。参加者の中には、それこそジョン万次郎の子孫や、万次郎を救助したホイットフィールド船長の子孫、黒船のペリー提督や小泉八雲の末裔など、日米の交流の歴史にふさわしい人たちも名を連ねている。

「メインは3日間のホームステイ。誰でも参加できます。今回の島根にはアメリカ全土から95名が参加しました。来年はアメリカで開催されますが、日本でホストファミリーを務めた人たちが親しくなったアメリカ人の家に今度はホームステイに行く、そういう例がよくあります。1回限りのことではなく、長くつながっていくこと、維持することが大きな目的でもあります」

2013年春、日米交流への長年の貢献から、ポールさんは旭日小綬章を受章することが決まり、6月にデンバーの日本総領事館で授与式が行われた。

「国籍はアメリカだけれど、人種としては日本人。日本文化を愛し、日本人を愛し、日本に尊敬の念をもっています。日本の血を引いているということは私の誇りです。日本人は本当に真面目で素直な人種だと、私だけじゃなく世界の人が思っていると思います。もちろん全部が全部ではないでしょうが、一般的に日本人ほど真面目な人種はいないと思います」

「父たちの満州脱出の話は、第一に若い世代の人たちに知ってもらいたい」とポールさんはいう。「自分たちのおじいちゃん、おばあちゃん、あるいは、もう1世代上の人たちが大変な苦労をしたこと、戦争の恐ろしさ、平和の尊さを知るためには自分の歴史を知っておかなければならないと、私は深く思っています。特にこの満州の悲劇は、もっと日本国民に理解していただきたい。この事実を知らなければ、また過ちを起こす可能性がありますから…」

日米のいい関係はこれからもしっかり維持しなければいけない。そのうえで「日本は素晴らしい国、だから世界でリーダーシップを取らなきゃいけない、と私は思っています」。そうポールさんは結んだ。

 

文/佐藤まゆり 写真/小森学