とにかく、決めつけないで生きてきました。

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Interview - 阿部 榮さん/建築金物製作会社経営、全道美術協会 会友

昭和24(1949)年、十勝の足寄(あしょろ)町で10人きょうだいの10番目として生まれた阿部榮さん。中学を卒業後、北見の職業訓練所(現北海道立北見高等技術専門学院)の機械科に進み、16歳のとき集団就職で室蘭市の造船会社に入社。1年で会社を辞め、その後もさまざまな職業に就く。「三日坊主ってよく怒られたもんです」と阿部さん。そして「本人にすれば、自分に合う仕事を探してたんですけどね」と言葉をつなぐ。

波瀾万丈の適職探し

「造船会社も行った。自衛隊にも入った。鉄骨屋もやった。ウエイターもしてみた。してない職業がないくらい、いろんな仕事を経験したから、あらゆること知ってるよ」と笑う阿部さん。福岡、名古屋を経て北海道に戻り、釧路へ。さらに札幌へと拠点を移したのは24〜25歳のころだった。

ところが、入社した鉄工所は1年ほどで倒産。次いではじめたのが長距離トラックの運転手だった。携帯電話などあるはずもない時代、本州まで遠出しているときに父が亡くなり、札幌に戻って下宿のおばさんに「親が死んでも連絡がつかないなんて、この親不孝者め」と叱咤され、そのとおりだと思い、運送会社を辞めた。

その後も自分に合った仕事探しは続いたが、あるとき「これは!」と感じる仕事に出合った。建築金物の仕事だった。けれど、勤めたその会社も倒産。会社勤めに見切りをつけて、独立の道を選ぶ。掲げた看板は、やっと出合った“自分にすごく合う仕事”建築金物取付業。道具を車に積み、カラダひとつで日本国中どこへでも行ける仕事だった。

32歳のときに順子さんと結婚し、男の子と女の子、2児の父に。ところが、子どもたちが愛おしくてしょうがないのに、出張ばかりで1週間に1回帰れるかどうか。ひどいときには2〜3週間も家をあけた。

「長い出張から帰ると子どもが『どこのおじさん?』って泣く。それがツライっていうか、自分に腹が立ってね。何やってんだ俺、って。それで、子どもと毎日接するには家の近くで仕事をするのが一番だと思って、製造業に変えたんです」

建築金物取付業から、金属のパネルや階段の手すりなども製造する製作所へ。昭和63(1988)年5月、38歳のときだった。製造上の必要性から三角関数を3日で覚え、阿部さんの金物は取付業での経験が大いに役立ち“扱いやすい製品”と評判になった。

「どんなにいいモノを造ったと思っても、使う相手がいいと思わなければ終わり。目線を同じ高さに揃えて、相手の立場に立つのが“モノつくり”」。それは、子どもに接するときも同じだと阿部さんはいう。

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好きなことに向かって、自分の才能を生かす

「子煩悩な楽しいお父さんで、息子や娘の友だちの間でも人気者のおじさんだった」と話す妻の順子さん。「スーパーマリオに似てるっていって、子どもたちが赤い帽子をプレゼントしてくれたりね(笑)」。高校生になった息子の友人が進路に悩んで相談に来たこともあった。

子どもに対するときは同じ目線で、時には「俺もそういうとき、あったなぁ」と自分を振り返りながら話す。娘に「お父さん、私、英語だけ勉強していい?」と聞かれたときも驚かなかった。考えに賛同し「ほかのことは、働くようになったら自分に必要な勉強が出てくるから、そのときでも間に合うよ」と話した。三角関数がそうだったように「多少は苦労するけれど、生きていくのに必要だと自分でわかった時点で必死になってやるから、学ぶスピードも早い」。すべてを独学でやってきた実体験が語らせた言葉だった。

「食べていけるかどうかは本人次第。それを心配するより、まず、好きなことを見つけること。そのためにはたくさんのことを経験して、いろんな人とふれあうことが大事かな、と。あと、決めつけないことですね。親も『うちの子はこうだ』と決めつけてはいけない。子どもがしたいと思うことに協力してやるのが親だと思っています」

阿部さんにとって一番大事な道具ハンマーは、叩くものというイメージがあるが「そうではない」という。精度高く造られた製品と製品を合わせ、凹凸なくぴたっと平らにつなげるときに、ほんの軽くコンコンと使うだけ。叩くということは無理やりにでも平たく合わせようとしている証拠で、仕上がりもよろしくない。子育ても同じで、むやみに怒って親の権限を振りかざしてもダメだと思うという。

「子どものやることに、いちいち親が指図するもんじゃない。子どものやりたいと思うことを取り上げる権利は親になし、と自分は思ってます」。娘がアメリカ留学を希望したときも同じ。娘にとって旬のときにやりたいことをさせてやろう。「自分の才能を生かしておいで」と送り出した。

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60歳のトライアル、人生なにがあるかわからない

20131115_04榮製作所が手がけたものは、東京の環状8号線羽田空港トンネルの庇、留萌市神居岩公園の時計塔、苫小牧の白鳥アリーナ、仙台市泉区の公園モニュメント、北海道警察本部のステンレスの交番などなど。縁あって彫刻家の國松明日香氏と出会い、作品制作の手伝いもさせていただいた。新しい素材を扱う際には、順子さんがつくる造花のための花器や置き物で試作し、技法の確認をすることもある。

仕事は自分で創るもの。60歳になったら自分の技術で何かしなければ、と思っていた。そんなとき目に入ったのが、新聞に載っていた全道展の作品募集だった。60歳を迎え、オブジェの制作をはじめる。中学時代も美術と技術家庭だけは通信簿で“5”。集団就職で得た人生初めてのお給料を古本屋の美術書に費やすほど、もともと美術が好きだった。

仕事とオブジェ制作。職人の世界とアーティストの世界。違いはあっても、取り組む姿勢に変わりはないという。決めつけず、こだわりなく、真正面から向き合う。60歳、1年目の全道展は落選したが、翌年の65周年記念全道展では「摩天楼」という作品で奨励賞、以後、第66回では「銀河系」で奨励賞ともう1点「生命の源」も入選した。第67回には東日本大震災で被災した人たちのことを記憶に留めたいという思いから、一本松を題材にした「叫び」を制作し佳作賞を受賞。第68回の今年(2013年)は、その一本松のタネをイメージした「種の起源」でやはり佳作賞を受賞し、全道展の会友に認められるまでになった

来年の全道展に向け、作品のイメージを妄想しているところだという阿部さん。この10月31日〜11月5日には第3回全道展 新鋭展に出展。2014年5月10日~18日には、札幌市東区のギャラリー「茶廊法邑」で初の個展も開く予定だ。

「まさか自分がこんなふうに変わっていくなんて想像もしてなかったですね。作家だなんてね」。職人のまじめさと父のやさしさに、アーティストの気概を新たに宿した阿部さんの目が少し照れたように笑った。

 

文/佐藤まゆり 写真/小森学