若者よ、好きな道を進む「勇気」を持て。

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Interview - 大東 俊郎さん/元札幌北高校校長、元北海商科大学教授

高校教諭、校長、大学教授と歴任し、北海道と海外の学校を繋ぐ相互交流の数々を実現してきた大東俊郎さん。「子供たちに海外を見せたい」との想いで、単身海外へ渡り、生徒たちの海外視察をカタチにしたことも。今、大東さんは若者たちに伝えたい言葉がある。「好きな道を突き進む勇気を持ってほしい」。だが、日本と海外の教育事情を知る大東さんは、若者の勇気を後押しする環境が、国内の教育現場に十分備わっていないことを憂える。

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とにかく、決めつけないで生きてきました。

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Interview - 阿部 榮さん/建築金物製作会社経営、全道美術協会 会友

昭和24(1949)年、十勝の足寄(あしょろ)町で10人きょうだいの10番目として生まれた阿部榮さん。中学を卒業後、北見の職業訓練所(現北海道立北見高等技術専門学院)の機械科に進み、16歳のとき集団就職で室蘭市の造船会社に入社。1年で会社を辞め、その後もさまざまな職業に就く。「三日坊主ってよく怒られたもんです」と阿部さん。そして「本人にすれば、自分に合う仕事を探してたんですけどね」と言葉をつなぐ。

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「できるか・できないか」じゃなく「やるか・やらないか」。

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Interview - 後藤亜弥華さん/カフェ&エステサロン運営

高校卒業後、2年近く浪人生活を送るも希望する大学に入れず、挫折。高校からニュージーランドへ留学していた妹は向こうで楽しそうにやっている。私も大学がダメだったら、海外でも行っちゃおうっかなぁ——そんな軽いノリがきっかけのロンドン留学だったと笑う後藤亜弥華さん。でも、英語もままならない状態で出かけたロンドンでの3年間は、人生を変えるくらい大きなものになった。

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歴史の事実を知り、交流をつなぐことの大切さ。

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Interview - ポール 邦昭 マルヤマさん
南コロラド日米協会会長、コロラド・カレッジ アジア諸国語学部日本語教師

ポール 邦昭 マルヤマさんは1941年、日本人の父とアメリカ日系2世の母の三男として東京で生まれ、4歳のとき満州の鞍山で終戦を迎えた。終戦間際のソ連軍侵攻で隔絶状態となった満州*1。父の丸山邦雄さんは当地に取り残された約170万の日本人の引き揚げを可能にするため、2人の同志*2とともに全くの私人の立場で満州から決死の脱出をはかり、大連カトリック教会や中国国民党軍の協力も得て中国の天津に脱出して、米海軍船で帰国。満州の悲劇を広く訴えGHQ(連合軍総司令部)に陳情し、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとも面会して130万人の引き揚げを実現させた。

この3人の偉業をできるだけ多くの人に伝えたい。その思いからポールさんが選択したのは英語で出版することだった。2010年に“Escape from Manchuria”を自費で出版。翌年『満州 奇跡の脱出』として翻訳、出版されている。

*1 1945年8月9日、突如侵攻が始まり、やがてソ連が満州全土を占領。
   外部との通信も完全に途絶え、職も奪われ、銀行口座も凍結され、他の地域へ行くことも許されない状況に陥った。

*2 鞍山で建築事務所を経営していた新甫八朗さんと、その部下で中国語が堪能な武蔵正道さんの2人。
   当時、丸山さんの父42歳、新甫さん32歳、武蔵さん24歳。

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失敗を恐れず前に進めば、新たな道が開けると信じて。

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Interview - 平井麻貴さん/旭川大学高等学校 英語科教諭

小学5年生のときに父親の仕事の関係で渡米。1年で帰国し、旭川の小学校を卒業した後、再び家族3人でアメリカへ。現地の中学に通い、高校に進学した翌年、両親は帰国。一人アメリカに残ることを決め、ホームステイをしながら高校へ。そしてさらに、ピッツバーグ大学に進む。気がつけば日本語より英語のほうが話すのもラクになっていたという、平井麻貴さん。アメリカでは感じなかった異文化を、帰国した日本で感じる逆カルチャーショックも体験した。

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シンプルに「楽しい」って、大事なことだと思います。

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Interview - 寺地美穂さん/サックス奏者

寺地美穂さんがアルトサックスと出会ったのは、高校の吹奏楽部でのこと。6歳から習っていたピアノは持ち運びができない楽器。持ち歩ける楽器に憧れがあったという。フルートやオーボエ、ホルン、トロンボーンも試しに吹いてみたが、「いいな」と思ったのはサックスだった。音が出しやすいし、何より音色が魅力的だった。もちろんこのときには、まさか将来プロのサックス奏者になるとは思いもしなかったが。

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何でもやってみたら、チャンスも巡ってきました。【後編】

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Interview - ミシェル ラフェイさん/北海道教育大学旭川校准教授

「先生をめざして、先生になったわけではない」とミシェルさんは言う。10年を北大で過ごした後、アメリカに帰国。3年経って再び北海道に戻り、高校の英語講師を務め、2008年から北海道教育大学札幌校で契約講師に。さらに同大学旭川校でコミュニケーション・ゼミを新設することがわかり、2011年、今のポストに就くことができた。

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何でもやってみたら、チャンスも巡ってきました。【前編】

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Interview - ミシェル ラフェイさん/北海道教育大学旭川校准教授

大学4年のときにアメリカはカンザス州から、日本語を学ぶために北星学園大学に留学。以降、一時的に帰国したこともあるが、北海道での暮らしが母国で過ごした期間とほぼ同じくらい長くなったというミシェル・ラフェイさん。奨学金を得ての2度目の留学では北海道大学で宗教学を専攻し、内村鑑三*を研究。2011年には、日英2つの言語で書いたエッセイ『なまら 内村鑑三な わたし』を出版した。

*1861~1930年。札幌農学校第2期生、同期に新渡戸稲造、宮部金吾がいる。在学中にキリスト教徒に改宗し、米国留学中に回心。教育者、ジャーナリスト。英語での著作も多い。

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日本への留学が、僕の人生を決めました。【後編】

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Interview - ラファウ ジェプカさん / 北海道大学助教・工学博士

ジェプカさんが小学1年生の1981年、ポーランドではワレサ議長の民主化運動が起こり、隣国・東ドイツでベルリンの壁が崩壊する5ヵ月前の、89年6月に自由選挙が行われ、翌90年にワレサ大統領が誕生した。しかし民主化が激しい勢いで進んだとはいえ、外国へ出ることはまだ簡単ではなかった。EUに加盟した今日ではほぼ自由に外国へ行くことができるけれど、当時は18歳になってやっとパスポートが得られたという。

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